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南三陸町を訪れて

数多くの命と希望を奪った東日本大震災から4年が過ぎました。

震災当時、さまざまな支援活動が日本中で行われましたが、

物を寄付する・・・お金を寄付する・・・など、

多くの方が行動を起こしたことと思います。

私も確かにそういうことはしましたが、

それはあくまでも、埼玉県という岩手・宮城・福島の方から見たら、

何も被害が無いに等しい、いわゆる安住の地から、

震災の地へ寄付をしているだけで、

震災を受けた方の本当の苦しさも、辛さも、

あの方々の立場に立って理解できているとは、

とても思えませんでしたし、理解ができているなど、

言えるわけがありませんでした。

震災当時も、マスコミや世論は、震災された方々に、

「がんばろう!!」「がんばって!!」と、

とても被災した方々の気持ちをわかっているとは思えないような言葉を連呼して・・・

あれほどの被災をして、その場で生きている人達が、

それ以上に何をがんばれというのか、のうのうと屋根のある家で、

毎日を過ごしている人間が、「がんばれ」などと、

よく言えるものだと、当時は耳をふさぎたくなる想いでした。

もちろん私には、そんなことを世論に訴えられる力などありませんし、

実際に寄付をする以外に何も出来ない自分でしたから、

とてもやりきれない想いで毎日を過ごしていた記憶があります。

 

震災直後に、甚大な被害を受けた気仙沼市にある中学校の、

被災した方々が体育館に大勢いる中で行われた卒業式で、

卒業生代表の言葉を伝えたニュースがあり、

その卒業生の子は、言葉を詰まらせ、

涙を流しながら、次の言葉を伝えていました。

 

「○○中学校と言えば、防災教育…と言われ、

内外から高く評価され、充分な訓練もしていた私たちでした。

しかし、自然の猛威の前には、人間の力はあまりにも無力で、

私たちから、大切なものを容赦なく奪っていきました。

天が与えた試練というには、むごすぎるものでした。

辛くて、悔しくてたまりません。

しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、

助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です。」

 

あれだけの被害を受けて、それでもなお、

「天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていく」

私は生まれて初めてニュースで涙を流しました。

そして、いつか必ず、自分の子供たちに被災地の現実を見せ、

私たちの世代だけではなく、今の子供たちが大人になっても、

助け合いの心を持ち続けられるよう、

絶対に震災のことを風化させてはならないと思うようになりました。

 

 あれから4年・・・

 

何度か子供たちを被災地へ連れて行こうと思ったことがありましたが、

現地の方々から見たら、単なる冷やかしになるのではないか、

復興の邪魔なのではないか・・・など、色々と考えてしまい、

なかなか実現できずにいました。

そんな中、先日石巻市に津波からの避難用の施設が完成し、

その落成式があり、町も復興に向けて前進している・・・

というニュースがありました。

それを見て、被災地がきちんと前に進んでいるのであれば、

私も子供たちに、映像ではなく、肌で感じ、

一生心に残る現実としてきちんと向き合わせなければと思い、

子供たちを連れて、現地を訪れることができました。

 

新幹線で仙台駅まで行き、そこからはレンタカーで行動したのですが、

仙台駅から海方面に向かう途中で、

未だに、津波の被害にあったままの廃墟となった住宅がいくつかあったことに

衝撃を受けました。

石巻市では、海沿いの本来住宅が建っていた場所が、

広大な更地になっていて、今住宅地に建っている家も、

ほとんどが新しい家で、当時の被害の大きさが伝わってきました。

そして、震災翌日のニュース映像では、

住民の半数以上の1万人が行方不明と報道されていた

南三陸町へ行き、当時避難場所になっていたホテルに

宿泊をしました。

その宿泊地を選んだのは、そこのホテルが、

南三陸町の被災状況や当時の話を、

ホテルの方が同乗して伝えてくれる、

「語り部バス」というバスを、

翌日の朝に運行してくれていて、

単に車で私が子供たちに案内するよりも、

ずっと心に残るだろうと思ったからです。

そのホテルは、避難場所になっていただけあり、

高台に位置し、そこから見える海は、実に穏やかな自然あふれる風景でした。

この海があのような惨劇を起こしたとは、今でも信じられない思いです。

ホテルからは、南三陸町の市街地も一望できるのですが、

そこには作業用の重機と盛り土の山だけがあり、建物はといえば、

平地にあるのは、津波の被害を受けた建物だけでした。

夜になると、震災前は、家・車・街灯・・・

きっと様々な人の生活の証の明かりがあったのでしょうけど、

その日、私と子供たちの眼前に広がる夜の南三陸町は、

夜の海と同じ色をした、真っ暗な世界でした。

 

その夜、ホテルで食事をしていた時に、

隣のテーブルに座っていた、

40~50歳前後の4人グループの方々と、

お話しすることができ、その方たちが地元の方で、

震災当時の色々なお話を伺えたのも、子供たちにとっては、

良い経験になりました。

その中のお話の一つには、次のようなお話もありました。

 

南三陸町の震災当時の写真の一つに、

「防災対策庁舎」に避難している写真があります。

右は、その防災庁舎の今の姿ですが、

宮城県が期限付きで震災遺構として保存を決めたようですが、

震災当時は4階部分の屋上に避難した人々の多くが、

津波に流されて、亡くなられたそうです。

その屋上の鉄塔に、人が一人登って、

津波から耐えている有名な写真がありますが、

震災後しばらくは、それが一人だけ助かろうとした、

当時の町長さんだったと、うわさされていたようです。

結局それは違っていたようですが、

4年経った今でもそれを信じている人もいるようで、

当時の混乱が垣間見えるのと、やはり現地の人たちには、

まだまだ昨日のことのような出来事なのだな・・・という気がしました。

また、そのグループの中のお一人の方は、

お店をしていた方で、翌日の「語り部バス」が終わったら、

「帰る前に、商店街に寄って行ってね」と言われました。

私は、まさかこの状況の場所に、商店街が?・・・と思いましたが、

それは私の勉強不足で、「南三陸さんさん商店街」という場所があり、

昨年には天皇皇后両陛下が、その商店街をご来訪されていました。

当然翌日は、「南三陸さんさん商店街」へ行き、

そこでは、現地の方々の空気に触れることができました。

皆さん、きっと心の中では、まだ震災が続いているのでしょうけど、

とても元気で、笑顔があふれる空間を作り出してくれていました。

私は、4年間・・・訪れることができなかった理由を現地の方に話しました。

そこで返って来た言葉が、とても印象に残っています。

 

「私たちが何よりも怖いことは、みんなから忘れ去られてしまうことなのです。

観光にせよ、興味本位にせよ、ここに来てくれて、一緒に話をして、

一緒の時を過ごすことが、私たちにとって、とても力になるのです。

ですから、復興に何年かかるかはわかりませんが、

何年あるいは何十年経ったら、またここを訪れてください。

私たちはここで待っています。

そういう繋がりがあることが、私たちにとって、生きていることなのです。」

 

私の子供たちもその言葉を一緒に聞いていました。

子供たちは、自分が親になったら、

絶対に子供を連れて、家族で一緒に来ることを決意したようです。

私もおじいちゃんとして一緒に…と言いましたが、

却下されてしまいましたけど・・・()

それでも、子供の心に、そういう気持ちが芽生えたのは、

心から嬉しく思います。

マスコミなどが報道しているよりも、はるかに復興は進んでいませんが、

これからも自分にできることを模索しながら、

被災した方々に、少しでも寄り添っていければ・・・と思います。

 

長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございました。